どうも、たみちゃんです。
残間里江子(ざんまりえこ)さんが、9月6日の「徹子の部屋」に
出演していましたね!
残間さん、99歳のお母さんが亡くなられた話を何処か
寂しそうにされていたのが印象的でした。
おかあさんが99歳、残間里江子さんって年齢はいくつなの?
残間って名字珍しい、出身地はどこ?
僕は、沖縄ではと思っていたんですがね
違っていたみたい。
現在シングルマザーとのこと
息子さんはいるらしいので、父親は誰なのか?
現在、プロデューサーとして、コメンテーターとして活躍している
残間里江子さんの、プロフや経歴、息子の父親が気になり調べて
調べてみましたので紹介したいと思います。
残間里江子のプロフや経歴
残間里江子さん、名字が珍しく沖縄ではと思っていましたが
宮城県出身の方で現在66歳。
経済的なことで、大学は明治大学短期大学。
結婚されていないが、息子さんいます。
波乱万丈だった彼女
一言や二言では語り尽くせません
少し長くなりますがよろしくお付き合いください。
残間里江子さんは、1950年3月21日に宮城県仙台市で生まれています。
兄弟は3歳年下の弟さんがいます。
彼女が生まれた当初は、両親とも旧国鉄職員(現JR)だったので
普通の生活をしたのですが退職して、父親が友人とともに事業を始
めたが失敗したそうで、そこから残馬さんの波乱万丈の人生が始まります。
それまでの生活から一変、貧乏生活に陥った残間家。
その上残間さんは、生まれながらにしてからだが弱く、小児生関節リュウマチ
炎や心臓弁膜症といった病気にかかり、療養生活をしていました。
貧乏で療養生活していた彼女は、小さいことよりこの貧乏から抜け出すには
「自分が働くしかない」と思っていました。
そんな彼女に、試練が待ち受けていました。
せっかくユネスコ少年少女合唱団に選ばれながらユニホームが
変えないために辞退。
中学生になってから父親の転勤で静岡県に移転。
お金持ちの多い静岡で、彼女が住んでいたのはまるで
家畜部屋みたいだった。
高校は静岡の女子校。大学は貧乏だったので明治短期大学。
希望は4年生大学だったそうです。
アルバイトしながらアナウンサー学校に通います。
これ以降は社会人になってからです・・・。
1970年に、難関を突破して静岡放送にアナウンサーとして
入社。
苦労して就職した静岡放送ですが・・・
今では考えられないことに、結婚したら会社をやめるという
当時の風潮があったようで・・・
アナウンサーも安住の場所ではなかった。
彼女が就職した静岡放送も例外ではなかったので退社。
退社したものの、次の就職先は簡単に見つけられず
やっとの思いで、就職したのが・・・光文社。
1973年6月に光文社に入社したことがきっかけで
今後の彼女の人生が大きく動くことになりました。
光文社では、女性編集部記者として活躍。
収入も人並み以上。仕事も順調。
しかし彼女はやっと順風満帆担ってきたのに
さらなる挑戦をする為に、29歳で光文社を退社。
その後、1980年に株式会社キャンディッド・コミュニケーションズを
設立。代表取締社長に就任。
その後、シャンソン歌手金子由香利さんと知り合い、金子さんのファンだった
山口百恵(現三浦)さんとも知り合うことになる。
その山口さんからある時「私の本作りを手伝ってもらえませんか」と
手紙が届いたそうです。
そのことがあって1980年9月、山口百恵さんの『蒼い時』をプロデュースし
知名度が上がったのです。
1983年33歳の時に女性雑誌『Free』を編集長として立ち上げる。
2007年には、「ユニバーサル技能五輪国際大会」総合プロヂューサー
を務める。
2009年、会員制ネットワーク「クラブ・ウィル・ビー」を設立。
残間里江子さんの波乱万丈の人生をみてきましたが、その原点と
なったのが幼い頃に思っていたこと「貧乏から抜け出すには自分が
働くしかない」これが彼女を支えて来たような気がします。
これは、NHK朝ドラ『トト姉ちゃん』が雑誌あなたの暮らしという
雑誌を設立頑張ってこれたのも、亡くなったトトに変わり妹たちを
立派に嫁がし家を守るという強い信念に似ているような気がします。
息子の父親は誰?
残間里江子さん20歳代後半に結婚されていました。
未婚の母と言われていたのでこれには驚きです。
さてその相手は大学時代の部活の仲間だった。
この方が、息子さんの父親だったのか?
結婚した当初は順調だった生活も、彼女の仕事があまりにも
忙し過ぎてはじめは仕事のことを理解してくれていた旦那さん
も、寂しさからか女性の陰がちらつきはじめた。
女性の存在を知った残馬さんは「離婚」したいと伝えるが
旦那さんなかなか離婚には応じてくれません。
離婚協議の結果、離婚する条件として全財産を支払うことで
決着しました。
残間里江子さん、旦那さんと別居中に交際していた男性がいたみたいで
その交際相手との間に子供が授かったという。
もとも持病持ちであった彼女は、お医者さんから妊娠は難しいと言われて
いたので、妊娠を知ったときには小躍りして喜び、なんとしても産むんだと
思ったそうです。
妊娠した女性は強いって言いますが、彼女は妊娠してからも会社を
休むことなく、出産時には人間ドックに入ると言って入院。
何故妊娠を隠していたのか、なんとしても仕事は続ける
人に迷惑はかけたくないと思ったからではと僕は思います。
何しろ彼女出産してから1週間後には仕事復帰
現場にいたっていうからね・・。
普通考えられないでしょう。
その後その男性とは上手く行かなかったのか、39歳でシングルマザーとして
生きる事を決心しています。
その息子さんも今では、すでに独立同じメディアの仕事をしています。
徹子の部屋でお母さんが99歳で亡くなったとお話していましたね!
そのお母さんにも苦労され、尽くされて来たそうです。
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母親について
残馬さんの母親は、富枝さんと言います。
旧国鉄職員として働いていた富枝さんは、労働組合の
婦人部長だったそうです。
その同じ組合活動で残間里江子さんのお父さんと
知り合い結婚。
組合の婦人、なかなか活発な方のようですね!
若い頃は作家を目指していて、活発であった
富枝さんも年には勝てないみたいで
2003年(87歳ぐらい)になると、お鍋を焦がすことも
しばしばあり、電話の呼出音も聞こえづらくなったという。
横浜で1人でマンションぐらししていた母親を、残間里江子さん
心配だからと一緒に住もうと東京に来るようにと説得するが、
長年住み慣れたところを離れるおは嫌だと拒否していました。
そんな母親を根気強く説得、ようやく東京に来ると言ってくれたが
最初は、同じマンションに8階、3階と別々に暮らしていましたが
母親が転倒したのをきっかけに一緒に暮らすようになった。
その時母親は、96歳になっていました。
残馬さん、母親とできるだけ一緒にいるためにと仕事以外は
全て母親との時間に使っていたそうです。
今まで離れて生活していた二人、一緒に暮らすよになりよく口論と
なって、ぶつかり合うこともしばしばあった母親も、99歳の時老衰で
亡くなったという。
母親と一緒に暮らしたいと言っていた残馬さんですが一緒に暮らした
ときにはすでに96歳、口には出されていませんが相当苦労されたのでは
ないでしょうか、僕の嫁の母親も90歳を過ぎた頃からは、介護が必要と
なっていました。
98歳でなくなるまでの間、妻の苦労は大変なものでしたので
残間里江子さんも苦労されたんでしょうね!
そんな気持ちが徹子の部屋で母親の事をかたる、残間さんが寂しそうに
見えたのかもしれませんね。
まとめ
まさに波乱万丈の人生を歩んでこられた
残間里江子さんでしたが
最後は仕事も順調。
何よりも、母親の最後を最後を看取られたのは
最高の親孝行をされたのではないでしょうか。
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